教養と倫理
最近、「教養」について想う。
「教養」はいろんな文脈で現れ、様々な価値判断がついて回る言葉なので、あまり立ち入った定義はしないが、ここでは漠然と、エレガントさを兼ね備えた雑多な知識であり、対話を成立させる場の根幹にあるもの、くらいに思っておこう。
僕は入学以来、ある種病的なほどに教養へのあこがれを見せてきた。
理由はいろいろ考えられる。僕の周りの友人たちのうち、優秀な人間ばかりが目にとまり、彼らに追いつきたい/追いつかねばならないと感じたこと、大学の授業は評価基準が(中高のそれと比較して)よく分からず、手当たり次第に関係のありそうなものに手を出してみるしか高評価を得る手段が思いつかなかったこと、「一般教養」の科目群で教員がしばしば「○○大生なら、これくらいは知っておいてください」(あまりにも残酷な言葉だ)と言うのを、権威主義的人間である僕が真に受けてしまったこと、などなど。
今となっては確かな理由なんぞ知る由もない。というより、理由は概して後からつけられるものだ。ある思いを感じて言葉にするときには既にその思いは遠く彼方へ飛び去っており、後に残るのは中身のない形だけだ。それでも僕たちはその形の中身を見ようとして、いつも他の物を入れたがる。
重要なのは、結果だ。今僕は、教養のためにならないことをしていると、むずがゆいというか、よくない事だというように感じる。
これは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でヴェーバーが描き出した、プロテスタント的=禁欲的感情であり、倫理(Ethik)的色彩を持つ生活の原則としてのエートス(Ethos)なのではないか。そう感じる。
僕はもうすっかり教養という鉄の檻に捉えられてしまった。本のページをめくらずには穏やかに眠ることもできないし、何もしない、あるいは享楽的に過ごした日にはどっと虚無感が襲ってくる。この内面的孤独と闘わなければならない。
教養が自己目的と化して、追い求め続けなければならない。
その先には?