関係について

たぶん自分は、物心つく前からいい子であろうとしてきたのだろう。

場の空気を作り出すよりは、場の空気に合わせてその場の最適解を見つけようとしてきた。

だから、自分が最適解だと思っていたものがそうではなかった場合など、嫌な思いを―――常人ではちょっと考えられないような嫌な思いを―――することがある。

 

中学一年生の時のことだ。

あるお調子者の先生が、生徒の名前をちょっともじってからかったことがあった。

正直僕はそんなに面白いとも思わなかったが、その生徒もまんざらでもなかったようだし、みんな笑っていたので、そんなものか、と思って僕も笑った。

その後、授業が終わる段になって、先生がその生徒をもじった名前で呼んだ。僕は、先生が笑いを取ろうと敢えてやったのだろうと思い、吹き出してしまった。しかし、その先生はどうも間違って呼んだらしく、先生の間違いを笑ったかどで、こっぴどく怒られることになった。

 

 

あまりにも理不尽だ。

 

だが、世界はそうやって動いている。

 

誰かが理不尽にも怒りを発したことで、他の人の全てが決まってしまう。

 

 

僕が覚えている「いやな思い」の最古の記憶はこれだ。もしかしたら、これ以前にも何かしらの原因があるのかもしれないが、これ以降、僕は他人の不快感について、あまりにも過敏に反応してしまうようになったように思う。そして、もしも僕が判断した最適解と実際のそれが正反対だった場合、どうにもならないほど取り乱すようになったのもこのころからだ。それはもはや無意識的にやってくるもので、「間違えた」と気づいたときにはもう遅く、悲しくもないのに止まらない涙と混じって全身から流れ落ちる尋常じゃないほどの冷や汗、立っていられないほどの目眩に襲われ、顔から見る見るうちに生気が失われていく。

 

僕は常に見えないものと戦っている。

他人の心の内はそうやすやすと見ることができるわけではない。しかし、それを分からなければ。いつ理不尽が、あの不条理な天罰が僕の身の上にのしかかり、破滅へ導くかわからない。あの感覚は何としても避けねば。そう思ううちに、いつの間にか役割を「演じる」ことが多くなった。

 

 

自分は協調性があると思っていた。中学、高校の部活やクラスの関係、大学のサークルなど、自分に非難の目が向かないように、誰かが過剰な負担を背負い、関係全体が崩壊することのないように努めてきたし、それなりにはうまくやれていたように思う。しかし、そうでもないのではないかということが分かってきた。実習の授業で、何人かのグループでの共同作業となった時、僕はあまりにも発言しすぎた。それは、プロジェクトをよりよいものにしようと思ったからであるが、「終わった班から自由解散」と言われている以上、早く終わらせたいという意図が少なからず働いていることを見落としていた。僕の我が強く出てしまったのである。この時の「いやな思い」はそれほど強いものではなかったが、自分はある程度話せばその人の語り方、表情、態度、リズム等等からある程度その人が何を考えているかわかるつもりだったので、この時そんな単純なことに気が付かなかったのがショックだった。

 

しかし、動き出す人間かいないと場が動かないのもまた事実だ。協調性なんてなくてもいいのではないか、肝要なのは、場を読み、必要な役割を獲得し、他者にそれぞれが許容できる役割を押し付けることではないか……

思考がまとまらない。