就活雑感

この日が来た。

二度目の更新だ。

正直もう執筆意欲はほとんど残っていないが、書かなければならない。(正確に言うと、先週書いている時点ですでに乏しかったし、けれども今週のうちでたまに書きたいテーマが断片的に浮かぶことがあったのだが。)

 

友人に会った。

大学で知り合った彼は今心理学を学んでいるが、授業にはあまり顔を出していないらしい。(それでも必要な単位はきっちりとっているのが彼の恐ろしいところだ。)就職活動の話をいろいろと聞いた。彼は夏のインターンシップに向けてエントリーシートを書いたり選考面接に出かけたりしているという。話のうまい彼のことだから、きっとうまくやるに違いない。

僕が就職活動について何も動き始めていないことについて、危機感を持ったほうがいいという話になった。彼はすでに何人かの友人と長所や短所を言い合ったり、自己分析というものをしたりしているらしい。僕は何もしていない。こうして差が開いていく……

 

「でも、俺、地元に戻って公務員になるつもりだから。」

 

不意に、自分の口からこんな言葉が出た。彼も「それならとりあえず試験勉強だけとかでもいいんじゃない?」などと言っていた。違う。そうじゃない。確かに僕は漠然と地方公務員になりたい、それでだめなら冬の院試だ、と考えている。だが、これは僕の本心だろうか?

僕はどんな職業がどんなことをするのか、公務員を含めて凡そ知らない。それでも僕が数ある職業のうちから公務員を、それもわざわざ何もない地元の公務員を志望したのはなぜだろう。他の友人(とても優秀な友人だ)が公務員を志望しているということもあるのかもしれない。親や親戚が地元に戻るようせがんでいることもあるのかもしれない。また、僕自身冒険的・創造的に何かを行うよりも与えられた仕事を堅実に愚直にこなしていくほうが向いていると感じるし、歳の違う友人からもそういったことを言われている、ということもあると思う。僕はなんとなく地元が好きだ。

だが、これらがすべて「地元で公務員になる」という目的のために後付けされた動機なのだとしたら?

僕は自分の将来を自分で決める能力が弱い。就職活動はそんな自分に対してはあまりにも過酷だ。ひょっとすると、僕は誰かに、誰でもないものに、運命に、自分の将来を決めてほしいのかもしれない。

しかし、人間というものは面倒なもので、こうしたことを思いつくなり、ちょっとそれに反発してみたくなるものだ。僕は自分の主体性を信じたい。あくまでこの将来設計は僕自身の手でつかみ取ったものなんだ。と、こう言ってみたくなる。どうにもならない他者や運命が自分を規定していることが問題なのではない。そのように感じられてしまうことが僕にとって重大な問題なのだ。

 

このようなことを悶々と考えていた。しかし、当時はうまく言葉にできなかった。それが、僕が就職活動について一般的なネガティヴな印象を持っていると彼の目には映ったらしい。(ある面ではそれは全く正しい。)「なんにしてもさ、公務員でも、面接とかあるんだったら、練習だと思ってどっか民間も受けてみたら?」彼がそんなことを言い始めた。僕の話したいことはそんなことじゃない。しかし、なかなか表出しがたい内奥に対して、コミュニケーションの速さはあまりにも残酷だ。とりあえず彼に話を合わせる。

「まぁ、考えてみるよ。」

「もしエントリーシート書くんだったら書き方教えるから。」

「ありがとう。」

外面だけが僕を支えている。だがそれは僕ではない。

浅いコミュニケーションは所詮外面と外面の接触に過ぎない。そして、浅いコミュニケーションをもとにしている就職活動も……

 

(外面性、内奥性については、社会学的にはE.ゴフマンが、哲学的・文学的にはM.バフチンが示唆を与えてくれるかもしれない。彼らについて最近、あまりに部分的にではあるが知ったことがこの記事に関係していると思う。)