序言-目的と形式-

まただ。

また始めてしまった。

 

時折、ごく偶に、表現をしたいという欲求に駆られることがある。

今回もそんな一時的な表現欲に駆られてしまってのブログだ。

だからおそらくは、長続きはしないのだろうし、する必要もない。

 

今回の事情が違うのは、自分の存在を認めてほしいというところにあるのかもしれない(あまりにも不確定な表現だ)。Twitterが怖い。僕はつぶやく。その瞬間に生じたことを、感情をふんだんに交えて呟く。この言説は自分を形作っているというにはあまりにも断片的だ。なんの統一性もない情報のカオスだ。一人称も真偽もなにもかも不明瞭で数日たてば何を思ってそれを書いたのかが分からない。

にもかかわらず、人はそこに一貫性を見ようとする。自分を示すという情報のカオスが、自分を作ろうとする。得体のしれないものがどんどん自分に侵入してくる。

Twitterはダメだ。何かつぶやくたびに僕は絶えず分裂する。ばらばらになった僕をかき集めて、必死にぼくを守ろうとする。こんなのはもうごめんだ。僕は僕である理由が何かしらあるはずだ。そう信じたい。

と、こう書いたが、果たして自分はそんなことを考えているのだろうか。アクチュアルに迫った問題なのか?それよりも目下のところは授業で扱う課題図書を読んだり手を付けていないレポートを仕上げたりするほうが圧倒的に重要な問題であることは明らかなはずだ。それなのになぜ僕はこんなことをやっているんだ…違う!そんなことが言いたいのではない。要するに、自分の獲得は、目下のところは差し迫ってはいないが、かといってそこから目を背け続けていては永遠の不安からは解放されない。…本当に?

人間は場を生き、時間を生きる。前者では自と他の境があいまいで、私はお祭り的な共同体験の一部でしかない。他方で後者はもっぱら内省の時間に現れ、記憶を頼りに確固たる自分を世界の中に位置づける。どちらが強くてもよくない。前者が強すぎると、分裂が進み自分が分からなくなる(それでもいいという声もあるかもしれない)。後者が強すぎると肥大した自意識空間という場の中ですべてが完結してしまい、その先にあるのは……

 

本題に移る。

端的に言えばこのブログの目的は私が私であることを回復することにある。インターネットのリアリティはあまりにも多元的であって、その中にありながらこういった活動をするのは難しいかもしれないが、それはあくまで程度問題だ。自分が納得できる程度まで自分を回復できればそれでいい。場と時間の間でバランスを保つことが肝要なのだ。

この目的を果たすため、気を付けたいことを挙げる。

まず、字数は1000字以上はほしい。短すぎると分散した自己の断片にしかならないし、長すぎると続かない。

それと、定期的に書くということ。テーマは何でもいいが、週1くらいで書きたい。書くことが自己目的化しているが、そもそも言論以外に何が自分を形作るというのか。僕がやろうとしているのは言動に統一性を与え、そこから確固たる自分をよみがえらせるということだ。

定期性は非常に重要だ。余裕があるから多く進める、余裕がないから翌日に送る、それはダメだ。規則がないと続かない。

 

さしあたりは以上だ。これっきりで終わるかもしれないし、続くかもしれない。少なくとも、現在こういったことに問題意識があるということだけは書き留めて〆たい。