近況

約3週間ぶりの更新である。やはり長くはもたなかったかという感がある。

理由がなかったわけではない。書くことが全く思いつかなかったこと、テストやレポートに追われていたこと(今も追われている)、云々。

だがさすがに1か月空けるともうおしまいになりそうなのでここらでどっこいしょと重い腰を上げようと思う。

 

近況だが、生協の本屋が文庫を3冊以上買うと15%引きにするというキャンペーンをやっていた。これは、よくない。読みもしないのにやたらと買ってしまう。分かっていたが、2回行って、2回買ってしまった。

 

E.サピア『言語』(岩波文庫)

中村元『龍樹』(講談社学術文庫)

P.バーガー『社会学への招待』(ちくま学芸文庫)

M.ヴェーバー『権力と支配』(講談社学術文庫)

E.デュルケーム社会学的方法の規準』(岩波文庫)

中北浩爾『自民党―「一強」の実像』(中公新書)

 

…6,500円は飛んだ。読むのはいつになるのやら。

ほかにも古本屋で文庫や新書類で興味をひかれたものは安いと思ってすぐに買ってしまう。なんだかんだ書籍代で今月10,000円近く持っていかれている気がするな。

 

そろそろ学習と並行して公務員試験のお勉強を始めようと思う。

試験は来年の5or6月(予定)。

対策本には今年の6月あたりから始めるべきとか6か月くらいが平均的とか、いろいろ書いてあってよく分からないが、よく分からないことはよく分からないまま捨て置くことにした。まずは全体像の把握から。どんな問題が出て、どんな問題が多く出て、自分の苦手はその中のどれか、を把握すれば自然とやるべきことは見えてくるものと考えている。できれば就職活動に時間的コストも金銭的コストもかけたくないので独学で。後期は今やっているレポートをしっかり出せば多少安息日などもできてくるはずなので計画的にやりたいなぁ。

 

テストが終わった。必修科目のテストが終わった。あまりにもひどい出来だったと思う。おそらく単位は来るが、問題はそこではない。自分はもっとできると思っていたし、こんな成績なのに必修にしている自分が情けないと感じた、そのことが問題なのだ。できれば卒論は良いものにしたいし、納得のいく形で卒業したい。だが、そのビジョンが全く見えない。テーマも決まらなければ実力もないという不安。どうしてここから逃れようか。。。

 

教養と倫理

最近、「教養」について想う。

「教養」はいろんな文脈で現れ、様々な価値判断がついて回る言葉なので、あまり立ち入った定義はしないが、ここでは漠然と、エレガントさを兼ね備えた雑多な知識であり、対話を成立させる場の根幹にあるもの、くらいに思っておこう。

 

僕は入学以来、ある種病的なほどに教養へのあこがれを見せてきた。

理由はいろいろ考えられる。僕の周りの友人たちのうち、優秀な人間ばかりが目にとまり、彼らに追いつきたい/追いつかねばならないと感じたこと、大学の授業は評価基準が(中高のそれと比較して)よく分からず、手当たり次第に関係のありそうなものに手を出してみるしか高評価を得る手段が思いつかなかったこと、「一般教養」の科目群で教員がしばしば「○○大生なら、これくらいは知っておいてください」(あまりにも残酷な言葉だ)と言うのを、権威主義的人間である僕が真に受けてしまったこと、などなど。

今となっては確かな理由なんぞ知る由もない。というより、理由は概して後からつけられるものだ。ある思いを感じて言葉にするときには既にその思いは遠く彼方へ飛び去っており、後に残るのは中身のない形だけだ。それでも僕たちはその形の中身を見ようとして、いつも他の物を入れたがる。

重要なのは、結果だ。今僕は、教養のためにならないことをしていると、むずがゆいというか、よくない事だというように感じる。

これは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でヴェーバーが描き出した、プロテスタント的=禁欲的感情であり、倫理(Ethik)的色彩を持つ生活の原則としてのエートス(Ethos)なのではないか。そう感じる。

僕はもうすっかり教養という鉄の檻に捉えられてしまった。本のページをめくらずには穏やかに眠ることもできないし、何もしない、あるいは享楽的に過ごした日にはどっと虚無感が襲ってくる。この内面的孤独と闘わなければならない。

 

教養が自己目的と化して、追い求め続けなければならない。

 

その先には?

 

 

関係について

たぶん自分は、物心つく前からいい子であろうとしてきたのだろう。

場の空気を作り出すよりは、場の空気に合わせてその場の最適解を見つけようとしてきた。

だから、自分が最適解だと思っていたものがそうではなかった場合など、嫌な思いを―――常人ではちょっと考えられないような嫌な思いを―――することがある。

 

中学一年生の時のことだ。

あるお調子者の先生が、生徒の名前をちょっともじってからかったことがあった。

正直僕はそんなに面白いとも思わなかったが、その生徒もまんざらでもなかったようだし、みんな笑っていたので、そんなものか、と思って僕も笑った。

その後、授業が終わる段になって、先生がその生徒をもじった名前で呼んだ。僕は、先生が笑いを取ろうと敢えてやったのだろうと思い、吹き出してしまった。しかし、その先生はどうも間違って呼んだらしく、先生の間違いを笑ったかどで、こっぴどく怒られることになった。

 

 

あまりにも理不尽だ。

 

だが、世界はそうやって動いている。

 

誰かが理不尽にも怒りを発したことで、他の人の全てが決まってしまう。

 

 

僕が覚えている「いやな思い」の最古の記憶はこれだ。もしかしたら、これ以前にも何かしらの原因があるのかもしれないが、これ以降、僕は他人の不快感について、あまりにも過敏に反応してしまうようになったように思う。そして、もしも僕が判断した最適解と実際のそれが正反対だった場合、どうにもならないほど取り乱すようになったのもこのころからだ。それはもはや無意識的にやってくるもので、「間違えた」と気づいたときにはもう遅く、悲しくもないのに止まらない涙と混じって全身から流れ落ちる尋常じゃないほどの冷や汗、立っていられないほどの目眩に襲われ、顔から見る見るうちに生気が失われていく。

 

僕は常に見えないものと戦っている。

他人の心の内はそうやすやすと見ることができるわけではない。しかし、それを分からなければ。いつ理不尽が、あの不条理な天罰が僕の身の上にのしかかり、破滅へ導くかわからない。あの感覚は何としても避けねば。そう思ううちに、いつの間にか役割を「演じる」ことが多くなった。

 

 

自分は協調性があると思っていた。中学、高校の部活やクラスの関係、大学のサークルなど、自分に非難の目が向かないように、誰かが過剰な負担を背負い、関係全体が崩壊することのないように努めてきたし、それなりにはうまくやれていたように思う。しかし、そうでもないのではないかということが分かってきた。実習の授業で、何人かのグループでの共同作業となった時、僕はあまりにも発言しすぎた。それは、プロジェクトをよりよいものにしようと思ったからであるが、「終わった班から自由解散」と言われている以上、早く終わらせたいという意図が少なからず働いていることを見落としていた。僕の我が強く出てしまったのである。この時の「いやな思い」はそれほど強いものではなかったが、自分はある程度話せばその人の語り方、表情、態度、リズム等等からある程度その人が何を考えているかわかるつもりだったので、この時そんな単純なことに気が付かなかったのがショックだった。

 

しかし、動き出す人間かいないと場が動かないのもまた事実だ。協調性なんてなくてもいいのではないか、肝要なのは、場を読み、必要な役割を獲得し、他者にそれぞれが許容できる役割を押し付けることではないか……

思考がまとまらない。

就活雑感

この日が来た。

二度目の更新だ。

正直もう執筆意欲はほとんど残っていないが、書かなければならない。(正確に言うと、先週書いている時点ですでに乏しかったし、けれども今週のうちでたまに書きたいテーマが断片的に浮かぶことがあったのだが。)

 

友人に会った。

大学で知り合った彼は今心理学を学んでいるが、授業にはあまり顔を出していないらしい。(それでも必要な単位はきっちりとっているのが彼の恐ろしいところだ。)就職活動の話をいろいろと聞いた。彼は夏のインターンシップに向けてエントリーシートを書いたり選考面接に出かけたりしているという。話のうまい彼のことだから、きっとうまくやるに違いない。

僕が就職活動について何も動き始めていないことについて、危機感を持ったほうがいいという話になった。彼はすでに何人かの友人と長所や短所を言い合ったり、自己分析というものをしたりしているらしい。僕は何もしていない。こうして差が開いていく……

 

「でも、俺、地元に戻って公務員になるつもりだから。」

 

不意に、自分の口からこんな言葉が出た。彼も「それならとりあえず試験勉強だけとかでもいいんじゃない?」などと言っていた。違う。そうじゃない。確かに僕は漠然と地方公務員になりたい、それでだめなら冬の院試だ、と考えている。だが、これは僕の本心だろうか?

僕はどんな職業がどんなことをするのか、公務員を含めて凡そ知らない。それでも僕が数ある職業のうちから公務員を、それもわざわざ何もない地元の公務員を志望したのはなぜだろう。他の友人(とても優秀な友人だ)が公務員を志望しているということもあるのかもしれない。親や親戚が地元に戻るようせがんでいることもあるのかもしれない。また、僕自身冒険的・創造的に何かを行うよりも与えられた仕事を堅実に愚直にこなしていくほうが向いていると感じるし、歳の違う友人からもそういったことを言われている、ということもあると思う。僕はなんとなく地元が好きだ。

だが、これらがすべて「地元で公務員になる」という目的のために後付けされた動機なのだとしたら?

僕は自分の将来を自分で決める能力が弱い。就職活動はそんな自分に対してはあまりにも過酷だ。ひょっとすると、僕は誰かに、誰でもないものに、運命に、自分の将来を決めてほしいのかもしれない。

しかし、人間というものは面倒なもので、こうしたことを思いつくなり、ちょっとそれに反発してみたくなるものだ。僕は自分の主体性を信じたい。あくまでこの将来設計は僕自身の手でつかみ取ったものなんだ。と、こう言ってみたくなる。どうにもならない他者や運命が自分を規定していることが問題なのではない。そのように感じられてしまうことが僕にとって重大な問題なのだ。

 

このようなことを悶々と考えていた。しかし、当時はうまく言葉にできなかった。それが、僕が就職活動について一般的なネガティヴな印象を持っていると彼の目には映ったらしい。(ある面ではそれは全く正しい。)「なんにしてもさ、公務員でも、面接とかあるんだったら、練習だと思ってどっか民間も受けてみたら?」彼がそんなことを言い始めた。僕の話したいことはそんなことじゃない。しかし、なかなか表出しがたい内奥に対して、コミュニケーションの速さはあまりにも残酷だ。とりあえず彼に話を合わせる。

「まぁ、考えてみるよ。」

「もしエントリーシート書くんだったら書き方教えるから。」

「ありがとう。」

外面だけが僕を支えている。だがそれは僕ではない。

浅いコミュニケーションは所詮外面と外面の接触に過ぎない。そして、浅いコミュニケーションをもとにしている就職活動も……

 

(外面性、内奥性については、社会学的にはE.ゴフマンが、哲学的・文学的にはM.バフチンが示唆を与えてくれるかもしれない。彼らについて最近、あまりに部分的にではあるが知ったことがこの記事に関係していると思う。)

序言-目的と形式-

まただ。

また始めてしまった。

 

時折、ごく偶に、表現をしたいという欲求に駆られることがある。

今回もそんな一時的な表現欲に駆られてしまってのブログだ。

だからおそらくは、長続きはしないのだろうし、する必要もない。

 

今回の事情が違うのは、自分の存在を認めてほしいというところにあるのかもしれない(あまりにも不確定な表現だ)。Twitterが怖い。僕はつぶやく。その瞬間に生じたことを、感情をふんだんに交えて呟く。この言説は自分を形作っているというにはあまりにも断片的だ。なんの統一性もない情報のカオスだ。一人称も真偽もなにもかも不明瞭で数日たてば何を思ってそれを書いたのかが分からない。

にもかかわらず、人はそこに一貫性を見ようとする。自分を示すという情報のカオスが、自分を作ろうとする。得体のしれないものがどんどん自分に侵入してくる。

Twitterはダメだ。何かつぶやくたびに僕は絶えず分裂する。ばらばらになった僕をかき集めて、必死にぼくを守ろうとする。こんなのはもうごめんだ。僕は僕である理由が何かしらあるはずだ。そう信じたい。

と、こう書いたが、果たして自分はそんなことを考えているのだろうか。アクチュアルに迫った問題なのか?それよりも目下のところは授業で扱う課題図書を読んだり手を付けていないレポートを仕上げたりするほうが圧倒的に重要な問題であることは明らかなはずだ。それなのになぜ僕はこんなことをやっているんだ…違う!そんなことが言いたいのではない。要するに、自分の獲得は、目下のところは差し迫ってはいないが、かといってそこから目を背け続けていては永遠の不安からは解放されない。…本当に?

人間は場を生き、時間を生きる。前者では自と他の境があいまいで、私はお祭り的な共同体験の一部でしかない。他方で後者はもっぱら内省の時間に現れ、記憶を頼りに確固たる自分を世界の中に位置づける。どちらが強くてもよくない。前者が強すぎると、分裂が進み自分が分からなくなる(それでもいいという声もあるかもしれない)。後者が強すぎると肥大した自意識空間という場の中ですべてが完結してしまい、その先にあるのは……

 

本題に移る。

端的に言えばこのブログの目的は私が私であることを回復することにある。インターネットのリアリティはあまりにも多元的であって、その中にありながらこういった活動をするのは難しいかもしれないが、それはあくまで程度問題だ。自分が納得できる程度まで自分を回復できればそれでいい。場と時間の間でバランスを保つことが肝要なのだ。

この目的を果たすため、気を付けたいことを挙げる。

まず、字数は1000字以上はほしい。短すぎると分散した自己の断片にしかならないし、長すぎると続かない。

それと、定期的に書くということ。テーマは何でもいいが、週1くらいで書きたい。書くことが自己目的化しているが、そもそも言論以外に何が自分を形作るというのか。僕がやろうとしているのは言動に統一性を与え、そこから確固たる自分をよみがえらせるということだ。

定期性は非常に重要だ。余裕があるから多く進める、余裕がないから翌日に送る、それはダメだ。規則がないと続かない。

 

さしあたりは以上だ。これっきりで終わるかもしれないし、続くかもしれない。少なくとも、現在こういったことに問題意識があるということだけは書き留めて〆たい。